ニュースっていうのも、日本においては顕著に経済活動の一環だと思えてならない。
刺激のある事件を大きく取り上げては、同じ用な事件の頻発を助長してきたのが日本のメディアだと感じる。
メディアの報道責任はどこにいってしまったのだろう。
今回もそうだ。
大臣宛の自殺予告の手紙を取り上げて、自殺してはだめだと報道するよりも
大臣や学校側の対応を眺め、何か落ち度でも見えれば、責めてやろうというのが垣間見える。
そんな報道に未成年の健全な育成や、日本の未来を真剣に考えている態度が感じられない。
子供社会の会話というのは、昔からスマートなものではないだろう。
悪口をいうのは普通だし、気に入らなければ仲間はずれ扱いにするなんて、珍しいことではない。
こういう僕だって、給食の牛乳を頭からかけられたり、机や椅子にひどい落書きされたり、
窓に首をはさまれて動けないところを意地悪されたりした。
もちろん自分が悪いわけではなく、今に当てはめれば一種のいじめだったのかもしれない。
これからだって、この繰り返しだろう。
なぜなら、子供は人間関係においても未成熟だからだ。
いじめは100%、いじめた人が悪い。
だから社会が問題にし、責めるならいじめた人間だ。
それを意地悪され、深刻に自殺まで考えている人ばかりの背中を後押しするような報道はおかしいじゃないか。
どう、子供たちの友達同士に対する健全な関係作りを助けていくかは、大人社会の責任だ。
だから自殺予告などとエスカレートしてしまったいじめ問題は、現場だけではなく報道にも責任がある。
互いに認め合い、尊重しあうということがどういうことなのか、親や学校などに押し付けるのではなく、
報道だって、大きな良い影響を与えることはできそうなものだ。
悪質な事件の手口は報道によって広まっているだろうことは否定できない。
それによっ社会は不安定になっている。
今回の大臣宛に手紙をだすという方法はテレビで知ったと言っている。
刺激的は報道はメディアには潤いがあるのかもしれないけど、公共の福祉のためにはなっていないと想う。
毎日のように、首吊りだとか飛び降りだとか、自殺だとか報道されている。
責任は、生きて取るものだ。
死んで何が解決すると言うのだろう。
被害者の心情が理解できるとか簡単に言って、加害者等を死に追いやることは正しいことではないと思う。
(写真は、オペラ座内)
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